豊岡演劇祭2021は、兵庫県に緊急事態宣言が発出(実施期間:8/20~9/12)されたことを踏まえ、誠に残念ではございますが中止を決定いたしました。
公演を楽しみにされていた皆さまには、心よりお詫び申し上げます。
事情をご賢察いただき、何卒ご理解賜りますよう、謹んでお願い申し上げます。
リーディングバージョンの開催についてはこちら
『何もしない園』 リーディングバージョン 観客役募集について
豊岡演劇祭参加作品
The end of company ジエン社 14回本公演 その1
『何もしない園』
脚本・演出 山本健介
出演
児玉磨利
善積元
制作 加藤じゅんこ
ジエン社は、2021年9月に開催される「豊岡演劇祭2021」にフリンジ公演として参加します。詳しい日程は7月後半に発表になります。
コロナ禍の中、私は自分の生活のために、さまざまな申請をしました。
「私は無職です」
「私には力がありません」
「私はコロナのせいですべてを失い、生活できる力がありません」
「もう限界です」
「死を待つ以外ありません」
ということを表すためにに、客観的事実のデータをエクセルで入力し、通帳のコピーをとり、離職した職場の離職票を再発行してもらうなどして、様々な手を尽くし、しかるべきところに、ちゃんとした服を着て、申請し、面接した。
ここまでしっかりとやらないと、自分がダメだという事を認めてもらえないものなのだろうか。
本当に支援が必要なひとは、こうした書類作成もできず、静かに、物言わず、朽ちているのではないか。
もうダメです、と申請したわたしは、むしろコロナ以前よりまともな生活できてしまうことになっている。
理由は簡単で、演劇をやっていなかったからだ。
演劇をやらなかったおかけで、多少はふつうの生活ができた。
いまや、一か月に一度はサイゼリアでご飯が食べられる。日向坂46を応援する余裕まである。ペンライトまで買った。メンバーがテレビに出るたびに、テレビに向かって振っている。
演劇をやらなければ、もっと前から金銭的には豊かに暮らせていたのかもしれない。
何もしなければ、わたしは幸せだったのだろうか。
1年前、『わたしたちはできない、をする。』という公演をしたとき、「出来ない園」というものを物語設定した。
いろんな出来なさを持った人々が集い、収監し、『「出来なさ」と向き合う……いや向き合うではないな、なんていうか、出来ない人たちができないまま、ただ、そこに、いて、あつまるというか……』みたいな園。
しかし、出来ないと思い込もうとしても、周りの人々に「出来てますよ」と言われ、出来てしまうことになり、その園を出ていく、というようなお話だった。
その設定をもう一つ進めて、『何もしない園』というものを作ったらどうか。
いま、世界全土で、自宅で待機し「何もしない」という事を強いられている。
その中で、しかるべき申請をし、しかるべき面接を通ったものだけ、よりよく、何もしないでいられる園があったらどうか。
きっとそこは、自分一人では「何もしない」というわけにはいかない人が、国の福祉の力を借りて、のびのびと、何もしないでいられる園だろう。
そのためにはしっかり申請し、審査され、面接された「良き人」でなくてはならない。
今の私みたいに、社会に対して誠実で、きちんと書類を提出でき、迷惑をかけず、疫病を広めず、しっかりと、何もしないでいられる人。
ふと、それを面接し、判断できる人は、どこに居るのだろう。
それをジャッジするのは、民主主義の社会であるならば、原理としては「市民の皆様」なのだろうか。
良き市民の人々に、わたしたちが「良き人」「余計な事をしない人」「害をなさず、危険なことはしない人」「容姿が悪くなく、好感が持てる人」であることをアピールし、
理解を得、居ていい場所を得ようとする。
どこかそれは、演劇の助成金の申請にも似ているような気がしているし、
助成を得られなければ何もすることもできなかった、私の演劇の現状にも似ている。
「私には力がありません」
「もう限界です」
「死を待つ以外ありません」。
その一方で、権力を持ちながら、何もしない人がいる。
何もしない人は何かするわけでもなく、何もしない。
しかるべき立場に居る人たちの何もしなさで、私たちは死の淵に立たされもしている、の、だろうか。
この、現在のどうしていいかわからなさを、何もしなさ加減を、「良き市民」の皆さんへ、演劇で見せたい、と思った。
これは、面接の劇だ。
私たちがいかに良い人であるか、「何もしない人」であるかを見せたい。
同時に、面接をする側の良き市民の人たちに、何を見るべきか、何を見ないでいたか、を、感じ取ってもらったらなあと思い、この劇をやりたいなあ、と思った次第です。
ジエン社 PV