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代表の書き潰し

愛と誇りってなんだ?

自分の国に愛と誇りを持つことは何も悪いことではない。 だがその愛が、「自国を侵害する存在は排除していい」というロジックに結びついたとき、そこには「愛と誇りって何だ?」という前提の定義が不可欠になる。  

愛や誇りが他国との比較のうえに成立している場合、その愛は非常に脆い。
「自国が優れている」という感情が、他国との優劣の構造の中でしか保てないとすれば、他国の成長や批判に触れただけで誇りはぐらつき防衛的な攻撃が始まる。  

本来、誇りや愛は証明しなくても揺るがない。 だが、自信がない人はそれらを他人に見せつけたくなる。そのまま言語化が進むと「自分の方が正しい」「違うものは間違っている」という構図が自然に立ち上がり、いつの間にか愛が選別や排除へと変質していく。  

自信がないと異質は脅威に見える。文化や価値観に確固たる自信があれば、他者はただの「違い」でしかない。しかし自信がないと「違い=否定」という気分になり、移民、異文化、リベラル思想などが自分たちを攻撃してくる存在に見えてしまう。 そして、防御の名を借りた排除が進行する。 ナチスもポルポトもルワンダも自信のなさが選民意識になっていたでしょ?  

ミクロにもマクロにも適用できる

これは国家だけでなく、個人の人間関係にも同じことが言える。

例えば自己肯定感のある人は、パートナーとの価値観の違いをお互いの個性として受け止められるが、自信のないやつは、そこに不安を感じて支配に走る。
価値観の強制、元カレとの比較、マウンティング…「俺はお前より上」「お前の元カレより俺のが上」…

それらはすべて、不安を優位性で覆い隠そうとする未熟な愛のかたちだ
そもそも恋人に「お前」って二人称を平気で使うやつこわい。

人間関係でも国家でも「こっちが優位に立つには」という視点で接する必要があるなら、その基盤は愛や誇りじゃなく「不安」だろ?  愛を扱いたいなら黙って笑ってろ。

本当に誇りのある国は、多様性に寛容だ。
他者の価値を認めつつ、自国の独自性を保ち、外交もフェア。
北欧諸国、カナダ、スイスあたりはその好例だ。彼らは「声高に誇らない」という誇りを持っているように見える。愛が他者排除へと変わるなら最初からそれは「誇り」じゃなく「誇りたいって欲望」だしつまり自信のなさだろ?本当にそれらを持ち合わせているなら他者を貶める必要はない。  
そんなことを考えていたら、ベトナム人の事件のニュースが流れてきた。
受容すべきとは言いきれない。排除の論調は、ますます強くなるだろうなとおもった。

無茶振りこそ燃える。

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