資本主義と競争と格差は抱き合わせ
資本主義は経済競争を価値の主軸とし、結果として経済格差を生み出す。世界の約半分はこの仕組みで動いている。
共産主義は思想理解度を価値の主軸とし、結果として発言権格差を生む。しかし純粋な共産主義国家はもはや存在しない。
社会主義は経済格差と発言権格差を同時に内包する。15%の国家がその形をとっている。
北欧の福祉国家は、国民全員が高負荷を引き受けることで平等を実現する。
残りの経済圏にはイスラム世界があり、そこでは「シャリア経済」という独自のスタイルが存在する。
収入の一部を義務として寄付に充て、融資には利息を禁じる。断食は貧困の苦しみを共同体全体で共有する仕組みであり、宗教倫理を通じて格差の拡大を抑制している。発言権の格差はスンニ派とシーア派で構造的に異なり、民主主義的合意を掲げながら形骸化する場合もあれば、聖職者中心のヒエラルキーが制度的に固定される場合もある。
さらにレアケースとして資本主義と民主主義とシャリア経済を採り入れたインドネシアとマレーシアがあるが、やはり経済格差を回避できていない。
いかなる体制であれ格差は消えない。
いかなる体制であれ格差は消えない。それは格差が価値の源泉であることを示している。
狩りに優れた者には狩りを、治療に優れた者には治療を任せるために、能力に基づく序列は必須だった。同時に人は死に至る瞬間まで価値を生み出す可能性を持っている。その可能性を維持するためには、弱者を救済する仕組みが不可欠だった。
つまり格差と分配の存在は人間社会の宿命であり、それを受け入れることでしか共同体は存続しえない。
この構造の中で、排他と共生も同様に必要である。社会の秩序を守るためには「誰を受け入れるか」「誰を距離に置くか」の線引きが不可欠であり、それが共同体の結束を強めてきた。同時に、異質な存在との共生なくしての発展もなかった。排他と共生は相反する概念ではなく、社会を動かす両輪である。
重要なのは「有るか無いか」ではなく「どの程度か」という問いで、そのバランスの取り方が時代ごとに社会の姿を決めている。
気力に満ちているときには競争を歓迎し、余裕があるときには分配を厭わない。孤独でいたい時期もあれば、他者と寄り添いたい時もある。
人間の存在は振幅であり、矛盾を抱えながら両極を行き来することで豊かさを得てきた。
人間は利益よりも損失を大きく感じる
ただし、この振幅は左右対称ではない。人間には、利益よりも損失を、好意よりも敵意を、安全よりも危険を強く認識する傾向がある。いわゆるネガティブバイアスである。十人の隣人と平穏に暮らした記憶より、一人の隣人から危害を受けた記憶のほうが強く残る。百人の移住者が社会に溶け込んでも、一人が重大な事件を起こせば、その一件が集団全体の印象を塗り替えることがある。税による公共サービスから日常的に利益を受けていても、給与明細から引かれる金額のほうが鮮明に意識される。
これは必ずしも人間の欠陥ではなく、危険を見逃した個体より、危険を過大評価した個体のほうが生存しやすかったと考えれば、むしろ合理的な性質でもある。草むらの音を「ただの風」十回正しく判断しても、十一回目の捕食者を見逃せば死ぬ。
反対に、十一回すべて逃げても失うのは多少の時間と労力だけである。
だから人間社会には、危機が訪れると競争より保護を、共生より排他を、寛容より処罰を求める方向へ傾きやすい性質がある。
そして厄介なのは、現実の危険そのものだけではなく「危険だと感じること」でも社会が動くことである。余裕を失った社会が不安から排他に傾くこと自体は、ある程度避けがたい。しかし、そのとき必要なのは「お前が悪いから出て行け」という断罪ではなく「今は余裕がないから、少し距離を取ってくれないか」という誠実な態度である。
ネガティブバイアスを消すことはできない
ならば必要なのは、それを否定することではなく、恐怖が社会の意思決定を独占しないように設計することである。
余裕を失った社会は不安から排他に傾く。それ自体は避けられないが、その際に必要なのは「お前が悪いから出て行け」という断罪ではなく「今は余裕がないから、距離を取ってくれないか」という誠実な態度である。
分配が不足しているからといって富裕層の努力を搾取として怒るのではなく、分配がもたらす社会全体の利益を語ることができるはずだ。
自己責任による自助努力は尊いがそれができない者に方法を教え、共に歩むことこそが、自らが受けた恩恵の還元になる。
共生主義は理想だが、人と人には必ず距離が必要になる。社会に不可欠なのはその適切な距離のデザインである。
そして、距離や立場の差異を埋め、相互を理解し決定的な断裂を回避するために、人は文化を生み出した。
音楽と踊り、酒と食卓、恋と快楽、詩と芸術が、それらの隔たりを埋めるために価値として存在しているならありがたいと思う。