言葉よりもはじめに「死」があった、はずだ。
死に「死」という言葉を与えて、そうでない状態を「生」と名づけたはずだ。
そこらへんがきっとヒトの始まり。
死の無音、静寂、苦痛、永遠への恐怖は
生の躍動、歓喜、快楽、そして有限への感謝を副産する。そんな感じで、死が兄で、生が弟。
だんだん死にも良し悪しがあって、生にも良し悪しがあるよねって考えになって宗教やイデオロギーが生まれる。
そしてさらに分化して夥しい数の言葉が生まれる。
本当は雨や晴れと一緒で、生も死も現象に過ぎないのだから意味や理由があるわけがない。だから、生きるも死ぬもそのスタイルも当人が勝手にしていい。出生の瞬間の白い光と、事切れる刹那の暗闇だけが現実であり、赤や青や緑、様々な色彩は錯覚のような夢で、そしてその夢や錯覚の織りなす様々なまぼろしを、人生などという。
そしてそんな人生もいつか歌のように終わり、忘れられる。墓標もいらんし、名前も残らないでいい。骨片一回握ってくれ。その手のひらのあたたかさも錯覚だけど、特例で現実ということにする。
まだまだ死ぬ予定はないが、俺が死んだら骨をそうして、飽きたら適当に捨ててくれや。