1年目は浮足立って、挙式などをやった。
2年目はちょっと地に足ついて、新婚旅行とこれからの設計などを話し始めた。
3年目はコロナ禍もあって、人生設計と生活設計を話し合ってぶつかることもたびたび。
今年はレストランも行けないので、ささやかにナポレオンパイ買って食べた。
人間関係はうまくいかないのが前提だと思う。
他人だろうが家族だろうが難易度は高い。
いつか子供ができたら教えてやりたい。
「1年生になったら友達100人できるかな」
「友達100人作った101人のコミュニティに乗っかってくる煩わしさはマジできつい」
「100人で食べたいな、富士山の上でおにぎりを」
「もう計画段階で1人除外されてる」
「パックン パックン パックンと」
「1人が除外されたことを、50人は喜び、30人は後ろめたさを覚え、20人は憤りを抱えたまま頂上に来ている。パックンパックン食べてるお前はその50人側なんだろう。マイノリティの背負ったものを無自覚に蔑ろにするマジョリティだ。残酷だな」
「ウエーン」
「泣くな。想像しろ。想像力豊かに育って欲しいから俺はお前に『想像力豊』って名前をつけた。がんばれ!想像力豊!」
「パパのクソヤロー」
そんな風に、他人だろうが家族だろうがぶつかる。
人を扱うことが難しいから、言語と通信はここまで発展したんじゃないかと思う。
だから、ナポレオンパイ食べて美味しいと思ったときに隣で「美味しい」と口にするとか、そういうシンプルな一致の積み重ねは、それなりに意味を持っているのだと思う。
岡崎想像力豊にもそういうことを伝えたい。
写真は帰宅を待っててくれたアザラシ。
