久しぶりに電車に乗った。
川口で開業している幼なじみに呼ばれ、WEBについての相談をうけに行く。
我々が生まれ育った街の話をした。
我々が卒業した小中学校は隣に汚水処理場が隣接していて、南風が吹くとその匂いが立ち込める点でろくな学習環境ではなかった。
家賃の安い団地の物件には訳ありの家庭も多かったように思う。
友人は言う。
「みんながみんなサッカーやるような街だったらそりゃサッカーやるでしょ。みんながみんな勉強やらねーんだもん、そりゃやらねーよ。
むしろあの街で勉強やってた龍夫すげーよ」
確かにそんな街だった。友人は二十歳を前にしてヤンキーから脱却し勉強を始めた。ちょうどその頃俺は勉強を辞めた。
人生の価値に読書量が与える影響は大きい。
語彙とその精度によって、認識がまるで変わってくる。
「腐っている」と言う観念を知らないと腐った食べ物を口にして腹を壊す。時として知らないことは致命的だ。
数学やプログラミングの領域も語彙と言えるかもしれない。
とにかく自分が今饒舌に立ち回れているのはその当時の勉強や読書の貯金も大きい。
観念と言葉は、中身と器の関係なのかもしれない。言葉を知ることでその観念を知る。
あるいは体験によって観念を得て後々に言葉を認識するケースもあるはずだ。
何にせよ語彙と体験によって観念が創出され、観念を知れば知るほど世界は違う色を帯びる。
尊敬に値するのは、世界の様々な色を知っていたり、世界の様々な物差しを知っている人だ。
そんな人は状況に応じて最適な方程式を作り出せるのだと思う。
自分が街で語彙を増やしていた頃、友人は人生のしみったれた面をみていた。
友人が面学に勤しんでた頃、俺は東京でしみったれていた。
まあここら辺の蓄積は、コロナの時世にはなお価値になる。
なんだか街の緊張感は以前より薄らいでいるように思う。
第二波が来るとか来ないとかの噂もある。米中の戦争は起こるのだろうか。
平和を願う側面、心のどこかでカタストロフを少し望んでいる。
調子こいた与党は糾弾されまくっててほしいし、一人ひとりの真価が問われる状況は面白い。
世の中を再検証すると言う意味においてはいい機会だ。
死や病気なしでそれができたら言うことなしなんだが。