ゆっちが東京にきたので鍋をする。
太宰治の私小説作品に「親友交歓」ってのがあるけれど、
詩作であれ芝居であれまたは何らかの生活の中で
俺が今まで関わってきた人間とこういう関係になるのは悲しいなと思う。
(いや、俺が売れるとか特にそういう話じゃなくて。)
タイムカプセルを昔校庭に埋めたが、その場所に見つからないのはどういうことだろう。思い出墓荒らしを生業にしている奴がいるのか。
それに俺は何を入れたんだっけ。ノスタルジーではなく単純に興味がある。
小中学校の俺が殺戮願望持ちのサイコパスだったらいやだなあ。
過去の俺は世界で一番近しい他人だ。奴の脳味噌の中身が気になる。
でも、ちょっと昔まで、考え方も覚めてたことを思い出す。
人間は安寧と幸福と平和を求めんのか或いは残虐な愚行を幾たびも繰り返すのか。
それに関しては平然と後者と答えていたな。スタンダードな性悪説論者だったわけだ。今は、前者だと思う。恥かしげもなくそう答えられる。理由は無いけど、そう答えるだけの優しい気持ち、感情が血管の中に流れていることを知っている。
人間の細胞周期21日で人は大きく変わることができる。こう変わろう、とイメージした姿を21日惜しみなく想像するだけで、1日目から生まれ始めた細胞の中に変化が生じはじめる。そう考えることにしている。そうあれば素敵だなと思う。
改革とまでは行かなくていい。意識すること。脳味噌使うこと。
今までもこれからも俺に必要なこと。
炊飯器の釜に米のカスがこびりつくのも、
お茶が酷く渋いのも、
俺におっぱいがついていないのも、
公演が中止になったのも、
俺の所為だ。俺の所為だ。俺の所為だ。
しかし、自分を追い込むような真似はしない。
クールさと笑顔はたやさない。それが紳士。
へらへらしすぎても平気。苦悩のし過ぎよりかは平気。
今日もこれからお出掛け。
せえの、「まんこー!!」