1
公園の柔らかい土に金魚の亡骸を埋めた。
悲しいとは思ったが涙を流すほど去来するものはなく、僕も彼女もただ無言だった。金魚の朱色は思い出せる。金魚の名前は思い出せない。
彼女は何かつぶやいた。声も内容ももう思い出せない。
2
久しぶりの友人からメールが届いていた。昔の恋人の訃報だった。
僕と彼女が別れてからもう八年が過ぎていた。連絡を取らなかったので知らなかったが、メールをよこした友人は僕らが別れた三年後に彼女と付き合いはじめ、その二年後に籍を入れた。彼の仕事の都合で二人は東京から名古屋に移り住んでいた。
彼の嫁、つまり僕の元恋人は先日病気を患い、最初は軽い病気だったけれど、運悪く脳に菌が回ってしまったとかで、二ヶ月ほど闘病したものの 一昨日の夜息を引き取ったという。
僕にとっては驚くべきニュースが次から次へと端的に簡潔に書かれていた。
文末には、明後日の通夜と葬儀への出席の是非が問われていた。
僕らが池袋の隅っこにある狭いアパートで暮らし初めたのは十年も前のことだ。
一人暮らしの僕の部屋に彼女は通うようになり、泊まるようになり、いつの間にか住むようになった。当時はまだお互い学生で、今思えば、同棲というにはあまりにちゃちな、ままごとじみた暮らしだったように思う。僕らはそのままごとのような部屋で、じゃれたりはしゃいだり抱き合ったりを繰り返し、ままごとのように将来の約束をした。まるで写真が色焦るように、八年は風景の色彩を奪うには充分すぎる時間だ。彼女の顔はどうにか思い出せるが、あれだけ耳にしたはずのあの声は曖昧なものになっていた。
「邪魔じゃないなら伺います」
「そんなにかしこまるなよ。俺は別に何も気にしてないから」
電話の向こうの友人は力無く笑った。
「手伝うことがあれば言ってくれ」
「わかった。何かとお願いすることになると思うが、よろしく頼む」
「知らせてくれてありがとう」
その魚屋の軒先では、なぜか金魚が売られていた。夕食の買い物のついでに一匹五十円でなんとなく買った。なんとなく買ってから金魚鉢やら餌やら草やら石やらを用意しなくてはいけないと気づいて、帰宅後彼女に呆れられた。ラーメンを食べながら僕らは名前を話しあった。珍しい名前にしようという話だったと思う。それでいて、お互いが好きなものの名前だったはずだ。
何て名前をつけたんだっけ。
その当時僕がはまっていた音楽、映画、小説、絵画のことを思う。どれもこれも違う。しかし、それらを思い出してみるのは玩具箱を開けるような懐かしい気持ちを覚える。そういえば僕の本棚には彼女に借りたままになっていた文庫本があった。別れてから返せないままでいたので棺に入れてやろうと思った。
買ってきたその日、金魚は風呂桶に一泊した。
3
名古屋に向かう新幹線の中でも、僕は彼女が死んだということに実感を持てないでいた。
そもそも、僕らが付き合っていた事実すら、いつか観た映画のようにしか捉えられない。新幹線が箱根を通過した。そういえば箱根も二人できたことがある。やはりフィクションのようである。
当時の僕が三十という年齢を想像できただろうか。色々な出来事があり、想像はやがて現実になった。そして現実はやがて虚構になる。死ぬまで僕らはそれを繰り返すのかもしれない。当時僕らが想像していた未来。結婚や出産や育児をする僕ら、色々な場所に旅行をする僕らはもういない。
現実は、亡くなってしまった彼女とその現実味を認識できない僕の二人だけだ。
ふと、僕は地名かと思ってみた。金魚に行きたかった地名をつけたのかもしれない。
パリ、ベルリン、プラハ、北京、バンコク、ホーチミン、シンガポール、様々な場所に僕らは行きたかった。違う。どれもまったく名前にそぐわない。結局行けたのは箱根だけだったな、と思うと小さい苦笑いがこぼれた。
4
棺の中の彼女はきれいな死に顔をたたえていた。
輪郭は細くなった。当然だが記憶より少し老けていた。こんなに整った顔をしていたのか。
彼女は本当に亡くなったのだ。
焼香を済ませ、手を合わせる。言葉にならない悲しみがこみ上げてきて口を閉じる。
僕の人生に大きくかかわってくれた人。あなたと出会って別れていなければ僕はここにはいない。違う人生だったと思う。お蔭様でこっちは元気でやってる。僕はあなたの八年を知らないが、しあわせでしたか。いずれまた僕と会えた時、聞かせてほしい。
ご冥福をお祈りします。
人間の細胞は三週間ですべて入れ替わるらしい。骨と名前以外はすべて変わりいく。果たして僕と以前の僕は同じ人間なのだろうか。欠落した八年の所以だろうか、それでもあの恋人と亡骸の彼女が他人のように思えてしまう気持ちもある。
彼女の旦那、つまり連絡をくれた友人に挨拶に行くと、目が腫れて頬が痩けていた。
「東京からわざわざありがとう」
それでもしっかりした声で僕を労うのを聞いて、友人は彼女にとって優しく、頼れる伴侶だったような気がした。
二人は名古屋市郊外に住んでいて、それぞれ市内の会社に勤めていた。子供はまだいなかったがいつ出来ても不自由のない暮らしだった。
「今までが本当に平和だったことに気づくなあ」と友人は小さく呟いた。
僕と彼女はつまらない諍いで別れた。小さい軋轢が手を打たないうちに積み重なって、気づいたときには大きい溝になっている。破局の理由の大概はそれだ。彼女と別れてからも同じような破局を何度か経験した。ただ、決まって、別れた後にそれまでがとても平穏だったように感じられるのが不思議だ。
過去は遠ざかると丸みを帯びる。
「引っ越したりないのか?」
「それも考えたがしないと思う。少し面倒なのもあるし、無理して気分を変えることもないと思った。しっかり長い年月かけてでもかみしめようって思う」
「そうか」
「猫と二人でな」
「猫飼ってるのか」
「拾ったんだ」
「名前は?」
「クッキー」
そうか。僕にはその名前の理由が判った。名前を決めるとき、たまたまそこにあったからだ。テーブルの上か何かに置いてあったのだろう。
そして、金魚の名前もそう決めたはずだ。
そうだ、あのときも僕らはそこで目に付いたものを名前にした。彼らの部屋にはクッキーがあった。僕らの部屋には何があった?そうだ、花が飾ってあった。花の名前、違う。カエルの人形があった。違う。どんなオブジェがあった?違う。
部屋に同じ名前で、しかも同じ役割の二物が存在したらどっちを指しているのかわからなくなる。つまり、クッキーのように、常にあるとは限らないもの。
「ラーメン」か?
違う。確かに名前を話しあっているときに僕らはラーメンを食べていたが、違う。ただ、考え方は合ってる。あの時あの部屋には一体何があった?僕らが好きだったもの。
5
翌日、葬儀の席で、さすがに僕も声を上げて泣いた。
ほとんどなくなっていたはずの彼女への思いは、実は押入れの奥のほうにしまっていただけでそれらが堰を切ったようにあふれ出した。
みんなが嗚咽しているのを見て、僕は彼女が生前もしっかり愛されていたことを確認した。
6
葬儀の後片付けを少し手伝い、僕は東京に帰った。
日が落ちるにはまだ時間があったので、池袋の暮らしていたあたりに行こうと思った。
金魚を買った魚屋はとっくになくなっていて、きれいな書店になっていた。あのぼろぼろな木造アパートは立派な鉄筋のつくりになっていて、これなら僕らは冬の寒い日にヒーターを奪い合ったりはしなかっただろうと思った。
住宅街のいくつかの道はまだ変わらぬまま残っていた。そうだ、僕らはこの道をよく二人で通った。
「夕食はどうしようか?」
「ラーメン食べたい」
「またかよ」
そんな会話を思い出して僕は大事なことに気づいた。
そうだ。僕らはラーメンをよく食べに行った。池袋駅前はラーメンの激戦区なので食べ歩くにはもってこいだった。そうだ。僕らは家でラーメンを作ることなんてはなかった。ラーメンを作るくらいなら外に食べに行くだろう。気まぐれで家で作ることはほとんどなかったといっていい。じゃあ、なぜ、金魚を買ったあの日、僕らはラーメンを食べていたんだろう。
ただの気まぐれか?或いは、果たして、それは本当にラーメンだったのか?
僕は映像を思い出す。赤いどんぶりから麺をすする彼女が浮かぶ。
夕日が赤く空を染めていた。池袋の懐かしい夕焼けだ。
足とめるとそこはその金魚を埋めた公園だった。端のほうの柔らかい部分に亡骸を埋めた。墓標は立てなかった。
金魚は数ヶ月、僕らの生活を見つめ続けた。
じゃれあう僕ら、争う僕ら、空想に耽る僕ら、が、こんな風に他人になって、お前の名前すら思い出せなくなってしまうなんてことをお前は想像できていたか?
彼女の顔はきれいだったよ。それは、もしかしたら僕の隣にあった顔だ。
僕は映像を思い出す。彼女が笑っている。赤いどんぶりから麺をすする。
「辛すぎだよこれ!水ちょうだい」と、キッチンに向かう。
そうだ。
僕は思い出した。
あの時食べていたラーメンは確かに辛かった。それは僕の味付けが失敗した所為だが、そもそもそれはラーメンじゃない。
タイラーメンだ。
だから僕は自宅で作った。
そうだ、ふたりはタイラーメンが好きだった。アジアの料理が好きだった。北京、バンコク、ホーチミン、シンガポールに僕らが行きたかった理由。それは屋台の食べ歩きだ。そしてあの日、僕がお前を買ってきたとき、その食卓にあったもの。ラーメンの中にあったもの、お前の名前。
「パクチー」だ。
不意に涙が溢れ出た。何粒も何粒も出て、パクチーを埋めたあたりの土に落ちた。
うれし涙だったのかもしれない。様々な感情が怒涛のように押し寄せて、僕は変な表情になった。僕と彼女とパクチーは確かにこの町で暮らしていた。その生活は決してフィクションじゃない。僕らは確かにここにいて、愛情を育んで、離れた。
そしてその恋人は死んだ。
「パクチー」と声に出してみた。そこから先は何も続かなかった。また涙があふれた。夕日の朱が目に入った。
7
公園の柔らかい土に金魚の亡骸を埋めた。
悲しいとは思ったが涙を流すほど去来するものはなく、僕も彼女もただ無言だった。
「ねえ」と彼女が言う。やわらかい声だ。思い出せる。
そして彼女は僕の手を強く握り、小さい声で「あいしてるよ」と言った。
僕はちいさく微笑んだ。
金魚の死を悼みながら。
了