オン・ザ・ミルキー・ロード

2016年に製作された作品。舞台は戦争中のバルカン半島。
監督自身が演じる主人公コスタは、ロバに乗って前線へミルクを運ぶ仕事をしている。銃弾が飛び交い、人間が殺し合っている世界で、彼は毎日のようにミルクを運ぶ。村には、兵士であるジャガの花嫁として一人の女性がやってくる。しかしコスタと彼女は惹かれ合ってしまう。
ここから物語は、戦争映画から恋愛映画へ、恋愛映画から逃避行へ、そして最後にはほとんど神話のような世界へ変化していく。
この映画を見て最初に感じるのは、やはりクストリッツァだ、ということだった。とにかく騒がしい。

銃弾、鯨飲、音楽、ダンス、動物、死亡….戦争を描いているのに、静かな絶望にはならず、世界が壊れれば壊れるほど、生命の音量が上がっていくような感覚は『アンダーグラウンド』や『ライフ・イズ・ミラクル』にも共通するクストリッツァ独特の感覚である。
普通の戦争映画では、戦争と日常は対立する。平和だった日常が戦争によって破壊される。しかしクストリッツァの世界では、戦争と日常が同じ場所に存在している。
砲撃の近くで結婚式をする。銃声の中で音楽を鳴らす。兵士が戦っている横で動物が歩いている。人間は殺し合っているのに恋をする。これは不謹慎にも見えるが実際の生命とは、そういうものなのかもしれない。世界が悲劇だからといって、腹が減らなくなるわけではない。戦争中だから恋愛感情が停止するわけでもない。死者が出た翌朝にも太陽は昇る。人間の都合に合わせて、世界全体が喪に服してくれるわけではない。

クストリッツァは、その残酷さと生命力を同時に描いている。そして本作では、その生命力を象徴するものとして、異常なほど多くの動物が登場する。ロバ、蛇、ハヤブサ、羊、犬…人間の映画なのか動物映画なのか分からないほど、動物たちが画面を占領する。どうやって演出したんだ。

クストリッツァ作品では以前から動物が重要な役割を持っていたが、『オン・ザ・ミルキー・ロード』ではさらに極端である。
なぜ彼の映画には、これほど動物が出てくる理由は動物が「人間の作った意味の外側」にいるからだと思う。人間だけが巨大な意味を作り、その意味のために殺し合っている。動物たちは、その横でただ生きている。この対比によって、人間の戦争はひどく馬鹿馬鹿しく見えてくる。
国家から見れば戦争には理由がある。歴史的経緯と政治的利害がある。
しかし生命そのものから見れば「なんでこいつら殺し合ってるんだ」という話なのかもしれない。

その意味で、クストリッツァの動物たちは人間より原始的であると同時に、人間より賢く見える。そしてコスタもまた、どこか動物に近い人物として描かれている。彼は英雄ではなく戦争を終わらせようともしない。政治的な主張もしない。ただミルクを運んで生きる。働く。
この単純さは、『フォレスト・ガンプ』にも少し似ている。世界が巨大な意味を作っている横で、本人は目の前にあるものを生きている。
しかし、そこへ彼女が現れる。名前すらほとんど重要ではない。「花嫁」は、現実の女性というより、次第に神話的な存在に見えてくる。

二人は理性的に恋愛するわけではない。条件を比較しない。将来設計もしない。そもそも恋に落ちるべき状況ですらない。それでも惹かれ合う。ここに、この映画の愛に対する考え方がある。人間は恋愛を結婚、家族、約束、道徳といった社会制度の中へ入れようとする。しかし、誰かを好きになるという現象そのものは、その制度より先に起こる。
「好きになってはいけない」と言われても、好きになる。戦争中でも好きになる。明日死ぬかもしれなくても好きになる。

つまり愛は、非常に不合理でその不合理さを生命そのものとして肯定されている気がする
戦争も不合理であるが両者には決定的な違いがある。戦争の不合理は生命を減らす。愛の不合理は生命を互いへ近づける。
だからこの映画では、二人の逃避行が次第に現実離れしていく。敵に追われ自然の中を逃げる。動物たちに助けられる。

奇跡のような出来事が起こるがリアリティを求める映画ではない。昔話や神話に近い。ロミオとジュリエット、オルフェウスとエウリュディケ。時代も国も違うのに、人間は何度も同じ物語を作ってきた。愛と喪失とその残滓。『オン・ザ・ミルキー・ロード』も最終的には「喪失」の映画になるが、ここでクストリッツァの生命賛歌は、以前の作品よりずっと悲しくなる。
本作では、生命力だけではどうにもならない「死」を取り扱っている。奇跡が何度起きても最後の奇跡が起きる保証はない。

タイトルの「ミルキー・ロード」は地上で人間が戦争をしている対比として空にある天の川を示しているのだろうか。人間の一生など一瞬にすぎない。誰が勝ったか。どちらの民族が正しかったか。宇宙から見れば、恐ろしく小さな話であると同時に、その一瞬の中で誰かを愛したことはその人間にとって世界のすべてでもある。

ここに、この映画のスケールの面白さがある。
宇宙から見れば人間は小さい。しかし一人の人間から見れば一つの愛が宇宙より大きい。
失ったものを忘れないために生きるという人生に考察の余地がある。

悲しみを乗り越える、過去を手放し新しい人生へ進む。それが「前向き」だとされるが、忘れないという生き方もある。
喪失を克服しない。愛した人間を過去にしない。悲しみを消すのではなく、抱えたまま生きる。
それもまた一つの生命力なのではないか?
人間は、失ったものから自由になる必要などないのかもしれない。
単純な「人生は素晴らしい」ではなく、こんな世界なのに、それでも誰かを愛してしまう生命はすげえ。という肯定なのだと思う。